2018年への年越しを、東山浄苑にて昼間に済ませました。もちろん、ひとりで。
2018年への年越しを、東山浄苑にて昼間に済ませました。もちろん、ひとりで。
年越しとはある意味、一年の内で最も巨大な 「境界」 の時期、と言えるでしょう。
いや、 「越し」 の語が明確に示す通りに、 「ある意味」 もひったくれもなく丸出しとさえ言えます。
古き年の死と、新しき年の再生。正に、 「境界」 の魔力が最高潮に達するであろう瞬間なわけです。
「境界」 を裏テーマに据える当サイトとしては、この巨大な 「境界」 、見逃すわけにはいきません。
が、これまで延々展開してきた年越し企画では、年越しの 「境界」 性、迫ることは出来ませんでした。
理由は、余りにも巨大だから。年越しはいわば、都市 or 国 or 世界の全てが動く 「境界」 だから。
クリスマスなどとは、わけが違います。社会のあらゆるエレメントが影響を受けるイベントなわけです。
とはいえ、退却戦ばかりやってるわけにもいきません。正面からの特攻こそ、当サイトの流儀。
死と再生へ正面からシビアに対峙する形の年越し、というのも、やはり一度はやっておくべきでしょう。
というわけで2018年への年越しは、京都に於ける死と再生の極点たる 「境界」 にて敢行しました。
出向いたのは、東山浄苑。霊苑です。巨大な建物に永代納骨御仏壇が大量に安置された霊苑です。
古墳や御陵があり、今も京都市中央斎場&京都中央安置センターが絶賛稼働中の六条山にて、
ほにゃらふにゃらな事情により、あの東本願寺とは違う東本願寺が運営してる、超弩級の霊苑です。
ゆえに、身内が入ってない者には無縁なんですが、2017年大晦日は昼に除夜の鐘を一般実施。
これぞ親鸞聖人&蓮如上人によって導かれた仏縁と会得し、出かけたのでした。
そう、これは新たな挑戦なのです。ほにゃらをふにゃらするのに必要な、挑戦なのです。
ほにゃほにゃふにゃほにゃをふにゃほにゃほにゃふにゃらするのに必要な、挑戦なのです。
ふにゃふにゃほにゃふにゃらをほにゃらほにゃふにゃほにゃらするのに必要な、挑戦なのです。
ほにゃらふにゃほにゃほにゃらをほにゃほにゃふにゃふにゃするのに必要な、挑戦なのです。
ほにゃほにゃふにゃほにゃらをふにゃふにゃほにゃらふにゃらするのに必要な、挑戦なのです。
ふにゃらふにゃほにゃほにゃをほにゃほにゃほにゃふにゃするのに必要な、挑戦なのです。
断じて、当日になって夜に雨が降りそうとわかり、昼に済ませたわけでは、ありません。
2017年の年越しは、手を抜き過ぎました。写経だけで帰るなんて、余りに手を抜き過ぎました。
なので今回は、ガッツリやりますよ。深夜の徘徊みたいなのを、鐘ゾンビみたいなのを、やりますよ。
大晦日当日の天気予報は、夕方以降から雨。おまけに実際は、明らかに夜へ雨がずれ込んでます。
が、やりますよ。0時の夜中に、濡れながら歩くんですよ。本当に体に悪いけど、やってやりますよ。
ただ、 「境界」 との対峙という点では、東山浄苑の 「昼の除夜の鐘」 も、中々に見逃せません。
鐘楼新築記念なのか何なのか、500円で撞けるそうです。京都最大の霊苑へ赴く、良い機会ですね。
なので、昼はとりあえず東山浄苑へ行き、夜にも改めてしかるべきスポットへ特攻することにしました。
年越しが昼で終わるわけ、ありません。夜も、やりますよ。絶対、やりますよ。死んでも、やりますよ。
で、当日12時半、一応最寄駅の京阪・清水五条駅から、出発。最寄ながら、40分かかるけど。
東山浄苑、送迎バスはありますが、出発地は東本願寺。おけいはんの私は、面倒なので、歩きます。
歩くのは、渋谷街道。六条山から東方へと続く古道ですが、現在はごくごく普通に京都周辺部な街並。
鄙びた風情の中、そういえば蕎麦は何処で食おうとか思いながら、緩めの坂道を登ること、しばし。
などと優雅に30分ほど歩いてると、清閑寺池田町の辺から坂が激化し、周囲の雰囲気も山化。
人界感が目減りするのを感じながら、渋谷街道 = 府道116号よりR1へ入り、さらに浄苑の専用道へ。
大晦日なのに汗が出るほどエグい坂を上って、R1を今度はオーバークロスし、入口へと向かいます。
専用道は、時折車が後から抜いて行き、ごく稀にバイクも通る感じ。徒歩の人間の姿は一切、なし。
と、俗世から離れた頃、東山浄苑の総門へ到着。 「東本願寺」 の石標を、神馬が守ってます。
といっても、此処は先述通り、あの東本願寺ではありません。京都駅前の東本願寺ではありません。
もちろん、西本願寺でもありません。 「家康に分けられた」 などと得意気に話せる話ではありません。
「ではどの東本願寺だ」 と訊かれると、私も何か、よくわかりません。とにかく、東本願寺であります。
総門、大きいので引いて見てみます。徒歩の人間など想定外の車が多いので、少し怖いけど。
総檜製という総門、サイズはそこそこ大きい寺の門くらい。中には、釋迦三尊像が安置されてるとか。
ただ、肝心の鐘の音は全然聞こえません。13時開始、らしいのに。で、不安になり、警備の人に質問。
すると、 「ああ」 という低温の対応で、とりあえず上に登ってほしいと言われました。ので、登ります。
で、歩行者などいなそうな単なる車道を、 「ようこそのお参りです」 に励まされ、上へ。
どれだけ登っても鐘の音が聞こえて来ないことに、不安というか恐怖を感じながら、上へ。
で、上の建物に到着。京都文化の粋&最新技術を結集したという御堂・嘉枝堂でございます。
嘉枝堂、途轍もなく巨大な建物です。御覧の車寄だけでも、巨大。全体はこれの50倍くらい、巨大。
ただ、人の姿は全然見かけません。というかそれより、肝心の鐘の音が此処でも全然聞こえません。
不審者丸出しでしばらく周囲を徘徊するも、それらしき賑わいは全くなし。なのでとりあえず、入堂。
巨大車寄を潜って嘉枝堂に入堂すると、中は至って現代的な建物。と同時に、至って宗教施設。
集金系の雰囲気が出てるかと思ったら、特にそんなことはなし。ただ、除夜の鐘感もまた、全然なし。
受付へ行って 「除夜の鐘やってるんですか」 と訊くと、興味本位者に飽きた感じで坊さんへ引き継ぎ。
坊さんは、妙に丁寧に案内してくれました。永大供養の巨大なブースの横を通り、建物の奥へ移動。
東山浄苑の鐘楼は、嘉枝堂の奥に建つ常楽堂を抜けた先、六角堂前の中庭にあります。
で、そこへ出るドア前まで、丁寧に案内されました。で、そこにある受付で、鐘撞料500円也を支払い。
鐘撞券は、甘酒・紋菓券&記念品が付属。お得ですね。2人撞きの場合は、割引もあり。お得ですね。
券には、 「44」 の文字。霊苑で得るには相応しい数です。きっと私は、10044番目の客なんでしょう。
「野生の猿に注意」 云々という注意紙が貼られたドアを開け、昭和後期感が漂う中庭へ入り、
小じんまりと露店が出てるものの客は全然いない空間で、鐘楼堂は新築丸出しな姿で建ってました。
此処にいる係の人へ券を渡し、撞く流れとなります。撞き自体の案内をしてくれるのは、またも坊さん。
坊さんは、3回スイングして、そのスイングの反動で撞くべしと、レクチャー。では、やってみましょう。
レクチャーされるままに3回スイングし、反動でゴーン。鐘の音は、今までに聞いたことがない音。
というか、とにかく音色が若い。鐘が金属で出来ていることを再確認させられる、実に硬質な音です。
といってもキンキンする感じではなく、非常に重くもある音。好みの音なので、聞き惚れること、しばし。
すると坊さんは、鐘内の共鳴音試聴も薦めてくれました。で、金属感爆裂の鐘内音も、有難く堪能。
鐘を堪能した後は、甘酒と紋菓です。ストーブのあるテントにて頂きます。味は、共に割と普通。
普通に堪能した後は、テントの真ん前に建つ六角堂が荘厳をやってるというので、ちょっと寄ったり。
スピリチュアル系な音に乗せて本尊の色が変化し、その前では灯明が光ってるのをぼ~っと観たり。
で、往路は案内されるまま歩いたので、よくわからんままに巨大な館内をしばし徘徊した後、退出。
で、 改めて嘉枝堂の巨大さを堪能してから、発車しかけの送迎バスを辞して、車道へ。
送迎バスを辞して清水寺方面へ歩いてみるかと思い、もと来た道を降り続けて、総門へ。
そう、此処から近いんですよ、清水寺。あそこなら、茶屋で蕎麦も食えるし。なので、行こうかなと。
浄苑総門を出て、雨の気配を湛えまくってる空を東山から見ながら、まずは清閑寺 「歌の中山」 へ。
六条山に縁が深いというか、主とも言い得る、清閑寺。しかし、今日は用事が特にないので、スルー。
「歌の中山」 aka 単なる野道を抜け、人よりも獣の気配が濃い山道を歩いて、清水寺へ向かいます。
で、しばらく歩いて、清水寺へ到着。清水寺では無論、獣よりも人の気配の方が、過剰に濃厚。
改装で舞台が見えない滝の家も、人は過剰。他の4軒の茶屋も混んでたら、蕎麦、もう止めようかな。
それにしても清水寺、混みまくり。大晦日+舞台改装中+雨が降りそうでも、関係ないみたいですね。
カメラを構える度に、その前後左右へ中国人が沸くような状況で、出口へ向かってしばらく歩きます。
アングルをたかられながら忠僕茶屋まで来ると、 「きつねそば」 看板があり、席も空いてました。
西郷隆盛と清閑寺にて密談を交わした清水寺・成就院の僧・月照、その月照に縁がある、忠僕茶屋。
清閑寺をスルーした侘びの意味も兼ねて、入ります。それなら、舌切茶屋にも入れという話ですけど。
店内は、2割の入り。客の大半は善哉類を頼んでいて、蕎麦・うどん類を頼む人の姿は、全然なし。
ですが、私が頼むのは、きつねそば700円。で、しばらく待った後に運ばれてきた、きつねそば。
味は、そうですね、味って一体何なんでしょうね。考えてみると、味っていうのも中々、深いですよね。
というか、そもそも年越し蕎麦というのは、味をどうこういう物じゃないですよ。大事なのは、形ですよ。
と、年越し蕎麦が持つ本来の意義について崇高なる思考を巡らせながら、淡々と食うこと、しばし。
で、茶屋&清水寺を出て産寧坂へ入ると、また無茶苦茶に人が過剰。こちらは、日本人も過剰。
この辺に来るまでずっと人間過小気味な所を徘徊してたので、余りのギャップに目が眩みそうです。
牛歩で坂道を下り、何故か今度は人が急に減る高台寺方面を抜けたら、続いては円山公園方面へ。
そして、稼働し始めている正月屋台を横目に、八坂神社へ。この際、初詣も済ませてしまいますよ。
って、そんなわけはありません。八坂神社へ寄ったのは、大晦日の大祓をチラ見する為です。
が、大祓は基本、舞台で関係者相手にやるだけ。なので、面白くないし、雨も降ってきたので、退社。
そのまま電車に乗って、帰りました。いや、帰ったのではなく、あくまでも一時待機。夜も、やりますよ。
年越しが昼で終わるわけ、ありません。夜も、やりますよ。絶対、やりますよ。死んでも、やりますよ。
という固い決意の下、しばし休養を取り、夜の再出撃に向けて英気を養います。
で、ダラっと寝転がって某年末番組をダラっと観たり。で、登場した顔に、腹を抱えたり。
登場した蕎麦にも、腹を抱えたり。あと、KBS京都では、某恒星観測員が綱引きしてたり。
某観測員番組は何故か続き、立花藤兵衛が捕まったり、縄文顔星人が飛び跳ねたり。
で、そのまま観てると最終回まで始まってしまい、おおおおおおおおおおおおとなったり。
でも、本当は何度も何度も観てるので、途中でムロのモロなどをチラ見してしまったり。
でも、最後の最後はやっぱりじっくり観てしまい、やっぱりちょっとしんみりしてしまったり。
で、そのしんみりを、腫れ上がった尻&吊り上がった股間で完全に吹っ飛ばされたり。
で、毛むくじゃらの乳首いじりとパンパンの腹撫でで、さらに徹底的に吹っ飛ばされたり。
で、そうこうしてる内に、京丹後市では雨の中で謹賀新年の花火が上がったり。
雨が降ってる深夜に外へ出かけるのって、大変ですよね。京丹後市の皆様、お疲れさまです。
感謝と尊敬の思いで一杯になりながら、私も新年を祝し、東山浄苑の鐘撞記念品を開けてみました。
香りがしてたので見当は付きましたが、中身は匂ひ袋。高価な感じではないですが、でも、良ひ匂ひ。
今年一年、きっと良ひ感じで過ごせるに、違ひありません。あ、初詣は、来年にでもやっておきます。
東山浄苑、私の他に鐘撞き客はほとんどいなかったので、客層はパス。
当たり前ですが、いるのは墓参りに来てる人と施設の職員、そして坊さんだけです。
アウェー感は、強烈としか言い様がありません。場違いを絵に描いたような状態、というか。
興味本位でホイホイ出向くのは、何をどう考えても感心出来る行為とは言えないでしょう。
ただ、自分であれ身内であれ、いずれ御世話になる可能性がないとも言えません。
また、施設自体は霊苑以外の何物でもないですが、周囲一帯を含めると興味深い所です。
除夜の鐘が一般開放されてる際には、出かけてみるのもいいのではないでしょうか。
そんな東山浄苑での、昼の年越し。
好きな人と越せば、よりゆく年くる年なんでしょう。
でも、ひとりで越しても、ゆく年くる年です。
2017年への年越しを、永観堂で写経だけをして迎えました。もちろん、ひとりで。
2016年への年越しを、京都帝釈天で迎えました。もちろん、ひとりで。
2015年への年越しを、八幡で迎えました。もちろん、ひとりで。
2014年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。
2013年への年越しを、嵯峨嵐山で迎えました。もちろん、ひとりで。 【前篇】
2013年への年越しを、嵯峨嵐山で迎えました。もちろん、ひとりで。 【後篇】
2012年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。 【1】
2012年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。 【2】
2011年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。 【1】
2011年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。 【2】
2011年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。 【3】
東山浄苑 京都市山科区上花山旭山町8-1 9:00~17:00 京阪電車 清水五条駅下車 徒歩約45分 |
忠僕茶屋 京都市バス 五条坂 or 清水道下車 徒歩15分 |